「フランケンシュタイン」と聞くと、何を思い浮かべますか?
おそらく、多くの人が「緑色の肌で、頭にボルトが刺さった大男の怪物」を想像するんじゃないでしょうか。ハロウィンの仮装でも定番ですよね。
でも、先日「SFの原点」としてメアリー・シェリーの原作小説を読んでみたんですが・・・衝撃の連続でした。
今回は、この古典的名作がなぜ200年以上も読み継がれているのか、そして現代の私たちに何を問いかけてくるのか。この物語が生まれた「時代背景」も含めて、本のレビューをしてみたいと思います。
- 激動の時代が生んだ「科学への熱狂と不安」
- フランケンシュタインは「博士」の名前だった
- 怪物は「怪物」として生まれたわけじゃなかった
- 本当の「怪物」はどちらだったのか?
- 19世紀の問いは、今もなお私たちに突き刺さる
- ホラーというより「悲劇」
- まとめ:古典のイメージを覆す、孤独と倫理の物語
激動の時代が生んだ「科学への熱狂と不安」
今回、この記事を書くにあたって、メアリー・シェリーがこの物語を書いた「時代背景」についても調べてみました。
これが、もう本当に面白い。
この小説が出版された19世紀初頭(1818年)って、まさに「産業革命」の真っ只中。世界がものすごいスピードで変化していた時代なんですね。都市に人が集まり、「労働者」という階級が生まれ、次々と新しい技術が登場する…。
そんな時代、人々の最大の関心事の一つが「科学」でした。
特に当時のヨーロッパの知識人たちの間で話題沸騰だったのが、主に以下のようなトピックだったようです。
- ガルヴァーニズム(動物電気)
科学者のボルタ(電圧の「ボルト」の語源になった人ですね)や、その先駆けとなったガルヴァーニによる「カエルの足に電気を流すとピクンと動く」という実験です。これが「生命とは電気信号なのか?」「もしかして電気を使えば、死体も生き返らせることができるんじゃないか?」という、当時の哲学界や教会を揺るがす大スキャンダルになったそうです。 - 死刑囚を使った公開実験
さらに過激な例として、ガルヴァーニの甥であるアルディーニは、ロンドンで処刑された死刑囚の死体に電気を流す公開実験を行いました。報告によれば、死体の顔が苦痛に歪み、片目が開き、手足が激しく動いたとか…。これが「死者を蘇らせる」というグロテスクなイメージに直結し、人々を熱狂させ、同時に恐怖させたわけです。 - 精巧な「からくり人形(オートマタ)」
そして、有名なヴォーカンソンの「アヒル」のからくり人形ですね。これがまるで本物のように動き、エサを食べ、消化(するように見せかけ)てフンまでしたというから驚きです。
「電気で死体が動く」「機械が生き物のように動く」……。
これがまさに「フランケンシュタイン」のアイデアの源泉です。
ちなみに、主人公のヴィクターが「墓を荒らして」死体を集めるシーンがありますが、当時は解剖学が急速に発展した一方で、解剖用の死体が足りず、実際に「墓荒らし(ボディ・スナッチャー)」が横行して社会問題になっていたそうです。そうした生々しい時代の空気も、物語にリアリティを与えているんですね。
この物語は、当時10代だったメアリー・シェリーが、夫になる詩人のパーシー・シェリーや、有名なバイロン卿たちとスイスの別荘に滞在している時に着想を得たと言われています。
彼らは最新のゴシップや科学の話題で盛り上がり、「電気で生命が作れるかも」「このアイデアで作品を書いてみよう」と約束したそうです。
そして、その中でメアリーだけが、このとんでもない傑作小説を書き上げた(しかも二十歳で出版)というから、その才能に、ただただ圧倒されます。
つまりこの物語は、ただの空想ではなく、産業革命という時代の「科学への熱狂」と「生命を創造できてしまうかもしれない」という倫理的な「不安」の中から生まれた作品だったんです。
フランケンシュタインは「博士」の名前だった
さて、時代背景がわかったところで、本題に戻ります。
まず、最大の衝撃からお話しする前に、この作品の基本情報からおさらいさせてください。これがまた、物語の核心に触れることばかりです。
- 作者名:メアリー・シェリー (Mary Shelley)
当時のフルネームは「メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー」です。 - 作品名(原題):Frankenstein; or, The Modern Prometheus
日本語に訳すと「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」となります。「プロメテウス」というのは、ギリシャ神話で「神に逆らって人間に火を与えた神」のことです。まさに「神の領域(生命創造)に手を出した」ヴィクター・フランケンシュタインのことを指しているんですね。このサブタイトル、記載されていないことがほとんどですがめちゃくちゃ重要です! - 出版日:1818年1月1日(初版)
驚くべきことに、この初版は「匿名」で出版されました。当時、作者のメアリー・シェリーはまだ20歳。しかも女性作家の地位が低かったこともあり、名前を出さなかった(出せなかった)ようです。夫である詩人パーシー・シェリーの序文がついていたため、「作者はパーシー・シェリーではないか?」としばらく噂されていたそうです。著者としてメアリー・シェリーの名前が明記されたのは、1821年のフランス語版や、1831年の改訂第3版からだと言われています。
「フランケンシュタイン」とは、あの怪物の名前ではありません。
これは、生命の謎に挑み、その怪物を生み出した若き科学者、ヴィクター・フランケンシュタインの名前なんです。
じゃあ、あの怪物の名前は?
・・・ないんです。
彼は作中、創造主であるヴィクターから一度も名前を与えられず、「怪物」「悪魔」「忌まわしいもの」とだけ呼ばれ続けます。この「名前がない」という事実が、物語の核となる「孤独」と「存在の否定」を象徴していています。
私たちが「フランケンシュタイン」と呼んでいるあの怪物のイメージは、主に1931年に公開された映画(ボリス・カーロフ主演)の影響が非常に強いようで、映画では、博士の助手(原作にはいない)の名前が使われたり、怪物が知性のない存在として描かれたり、原作とはかなり異なる脚色が加えられています。
もちろん映画も名作はあるのですが、原作のテーマ性を知るには、やはり小説を読むのが一番だと痛感しました。
怪物は「怪物」として生まれたわけじゃなかった
原作の物語は、北極探検隊の隊長が、氷上で衰弱しているヴィクター・フランケンシュタインを助けるところから始まります。そして、ヴィクターが自らの破滅的な半生を隊長に語り聞かせる、という「入れ子構造」になっています。
ここからは、私が特に心を揺さぶられた「あらすじ」と「感想」を交えてお話しします。
ヴィクターの傲慢と「創造」、そして「逃亡」
主人公のヴィクターは、科学の力で「生命を創造する」という神をも恐れぬ野心に取り憑かれます。彼は墓を荒らし、死体を集め、ついに人造人間を完成させます。
しかし。生命が宿った瞬間、彼が目にしたのは、理想とはかけ離れた「醜悪な」姿でした。
(原作には、身長約240cm、黄色い皮膚、薄い唇、水っぽい目…と描写されていました)
ヴィクターはここで何を思ったか。
「うわ、キモっ…」と絶望して、その場から逃げ出します。
自分が何年もかけて情熱を注いで生み出した「子供」とも言える存在を、見た目がキモいからという理由だけで、産声を上げた瞬間に見捨てるんです。信じられますか?
ここがもう、この物語のすべての元凶です。
生まれたばかりの怪物は、まるで赤ん坊のように無垢な状態でした。しかし、創造主(親)であるはずのヴィクターは、彼に何も教えず、名前すら与えず、ただただ拒絶して逃げたのです。
怪物の孤独な学習と「人間」への絶望
物語の中盤は、なんとこの怪物の視点で語られます。
ここが本当に凄まじい。
森を彷徨い、人里に下りた怪物は、その醜い姿ゆえに人間から石を投げられ、追い払われます。
彼は人間の恐ろしさを知り、ある貧しい一家(ド・ラセー家)が住む小屋の物置に隠れ住み、彼らの様子を覗き見ながら、独学で「言語」と「知識」を習得していきます。
そう、彼はめちゃくちゃ知的なんです。
彼は一家の会話から言葉を学び、落ちていたカバンに入っていた本(若きウェルテルの悩み、失楽園など)を読んで、人間の感情、善悪、そして「愛」や「家族」という概念を知ります。
知識を得れば得るほど、彼は自分が何者でもないこと、誰からも愛されない「異質な存在」であることを痛感します。「自分はなぜこんなに醜いのか」「自分には家族も友人もいない」と。
それでも彼は、盲目のおじいさん(ド・ラセー)なら見た目に惑わされず自分を受け入れてくれるかもしれない、と一縷の望みをかけます。しかし、その試みも家族の帰宅によって無残に打ち砕かれ、彼は人間社会から完全に拒絶されます。
この一連の流れが、もう読んでいて辛すぎました。
彼はただ、誰かと繋がりたかっただけ。愛されたかっただけなのに、その醜い外見だけですべてを否定される。彼の純粋な心は、人間からの度重なる迫害によって、次第に「憎悪」に染まっていきます。
「伴侶をくれ」という切実な願い
やがて怪物は、自分の創造主がヴィクターであることを突き止めます。
彼はヴィクターの弟を殺害(最初の復讐)した後、ヴィクター本人と対峙します。
ここで彼は、ヴィクターにこう要求します。
「お前が俺を生み出したのだから責任を取れ。俺と同じ姿の、女性の伴侶(パートナー)を作ってくれ。そうすれば、二人で人里離れた場所で静かに暮らす。二度と人間の前に現れない」と。
どうですか、これ。
あまりにも理路整然としていて、切実な要求じゃないですか?
彼は孤独に耐えられなかったんです。
ヴィクターは一度は承諾するものの、途中で「こんな怪物が二体になったら人類の脅威になる」と恐れ、完成間近だった女性の怪物を破壊します。目の前で。
これが決定打でした。
唯一の希望を断たれた怪物は、完全な絶望と共に、ヴィクターへの全面的な復讐を誓います。
「わかった。ならばお前も、俺と同じ「孤独」を味わわせてやる」と。
ここから先は、ヴィクターの大切な人(親友、そして最愛の妻)が次々と怪物の手にかかっていく、地獄のような復讐劇が描かれます。
本当の「怪物」はどちらだったのか?
読み終えて、私が一番強く感じたのは、「本当の怪物はどっちだ?」という問いでした。
確かに、怪物は多くの罪のない人々を殺しました。それは決して許されることではありません。
しかし、彼をそうさせたのは誰か?
生まれたままの彼を「醜い」という理由だけで見捨てた、創造主ヴィクター。
彼の内面を見ようともせず、外見だけで「怪物」と決めつけ、迫害した人間たち。
もしヴィクターが、最初に彼を抱きしめ、名前を与え、愛情を持って接していたら?
もし社会が、彼の知性や優しさに気づく機会があったなら?
彼は、あんなにも雄弁に愛を語り、文学を解する知的な存在だったのに。
一方で、ヴィクター・フランケンシュタイン。
彼は最後まで自分の「名誉」や「世間体」ばかりを気にしています。
自分が怪物を作ったことを誰にも打ち明けず、そのせいで周囲の人々が犠牲になっていく。彼は怪物を「悪魔」と呼びますが、その悪魔を生み出し、絶望の淵に突き落としたのは、紛れもなく彼自身です。
知的好奇心や野心だけで「生命」を生み出し、それが自分の意に沿わない(醜い)ものだったからと責任を放棄する。
これこそが、この物語で最も「怪物的」で「非倫理的」な行為だと感じました。
19世紀の問いは、今もなお私たちに突き刺さる
先ほど触れたように、フランケンシュタインは、産業革命による「科学への熱狂と不安」から生まれました。「電気で生命が作れるかもしれない」という当時のリアリティがベースにあります。
そして200年以上が経過した現代。
私たちは、遺伝子技術など、かつては神の領域とされた分野に足を踏み入れています。ヴィクターが電気で生命を生み出そうとしたように、私たちもまた、新しい存在や技術を生み出し続けています。
この物語は、そうした「科学技術の進歩」そのものに警鐘を鳴らしているように感じます。
フランケンシュタインの怪物が求めたのは、ただ「存在を認められること」でした。
それが拒絶された時、彼は憎悪に転じました。これこそが「被造物が創造主を憎む」という、多くのSF作品に受け継がれるテーマの原点なんです。
この物語は、「生み出した存在や技術に対する創造主(開発者)の責任」を、痛烈に突きつけてきます。
19世紀の「科学」への問いは、そのまま21世紀の「技術倫理」への問いとして、今まさに私たちに突き刺さっている。そう感じずにはいられませんでした。
ホラーというより「悲劇」
これから読もうと思っている方へ、いくつか補足です。
まず、これは「ホラー小説」として期待して読むと、ちょっと肩透かしかもしれません。
確かに殺人シーンはありますが、直接的なグロテスクな描写や、お化け屋敷的な怖さはありません。怖いのはむしろ、ヴィクターの身勝手さや、怪物の絶望的な孤独、そして人間の偏見です。ジャンルとしては「ゴシック悲劇」「哲学的SF」と呼ぶのがふさわしい気がします。
そしてもう一つ。
主人公のヴィクターが、本当に想像以上に自分本位です(笑)。
「ああ、エリザベス(婚約者)が殺されたのは俺のせいだ…俺はなんて不幸なんだ…」と嘆くシーンが多いのですが、「いや、お前がさっさと怪物の要求を飲むか、事情を話して対策しとけよ」と、読んでいて何度もツッコミたくなりました。
しかし、このヴィクターの「弱さ」や「身勝手さ」こそが、非常に人間臭く、物語に深みを与えているとも言えます。完璧なヒーローではないからこそ、彼の犯した過ちが際立つのです。
まとめ:古典のイメージを覆す、孤独と倫理の物語
メアリー・シェリーのフランケンシュタイン。
読み終わった今、私の中の「フランケンシュタイン」のイメージは180度変わりました。
醜い怪物が暴れ回るホラーではなく
自ら生み出した生命への責任を放棄した科学者と、創造主に絶望し、孤独ゆえに怪物へと変貌していった、名前のない被造物の悲劇です。
著者のメアリー・シェリーが、産業革命の激動の中、10代でこの物語を構想し、二十歳で出版したという事実に改めて驚愕します。
「古典は難しそう…」と敬遠している人にこそ、ぜひ読んでみてほしいです。
関連ページ:
フランケンシュタイン(英語版)
フランケンシュタイン(日本語版)
参考文献:

