- 重松清、疾走のあらすじと、他の重松作品との決定的な違い
- 「おまえ」という二人称語りが持つ、恐ろしいほどの意味
- シュウジとエリの関係が心を抉る理由
- ラスト「誰か一緒に生きてください」が物語のすべてである理由
- この小説を「おすすめしにくい」のに、一生忘れられない理由
読み終えた後でこんなに辛さが心に残る小説が、あっただろうか。
辛さというものが、そのままの形でぽっかりと心の中に穴をうがつ。そんな体験をさせてくれる小説が、世の中にどれほどあるだろう。
重松清「疾走」は、そういう本です。読後しばらくは心がヒリヒリし、苦しく呻き続けた。それでも、この本のことが頭を離れない。
私がこの小説を読んだのは中学生の頃だったのですが、とてもインパクトがありまして
今回は「疾走」のレビュー記事を書いてみようと思います。
重松清といえば、家族をテーマにした温かみのある作品群で知られる作家です。『ナイフ』『ビタミンF』『きみの友だち』です。どこか優しさが滲む作風と思っていたのですが
本作は、まるで別人が書いたかのような異質さを持っています。
重松清の作品の中でベストワンに選ぶかと問われれば、私は選ばないと思います。あまりにも重く、再読する気力が湧くかどうかもわからない。
それでも、主人公・シュウジの存在感は圧倒的で、永遠に心を捉えて離さない。それだけは、紛れもない事実として言い切れます。
西日本の干拓地、「浜」と「沖」という二つの集落が対立する閉鎖的な町。主人公・シュウジは、そこで極めて普通の、優しい少年として生まれます。
しかし物語は容赦がない。家族の崩壊、差別、暴力、殺人。どこにでもある普通の家庭が、一つの綻びから雪崩のように崩れ落ちていく。その全てをシュウジ一人が背負わされる。
中学生に背負わせるには、あまりにも酷な重荷。それでもシュウジは走り続けます。誰かと繋がりたいという、ただその一心だけを抱えて。
著者:重松清 発行:2005年(角川文庫・上下巻)
初出:2003年・週刊朝日連載
映画化:2005年(監督:SABU、主演:加瀬亮)
この小説に最初に戸惑う読者が多いのが、語りの形式です。本作は主人公・シュウジを「おまえ」と呼ぶ、独特の二人称で書かれています。
おまえは走り続けた——。
「おまえ」と語りかけるのは、いったい誰なのか。読み進めながら、ずっとその正体が引っかかり続けます。
読み終えてから、この「おまえ」と呼ぶ主体が、神父であると示唆されることに気づきます。物語に登場する神父——シュウジが出会う数少ない「善意の大人」——が、シュウジを遠くから見守りながら語りかけているとも読める。
しかし、この神父は助け舟を出しません。シュウジがどれほど追い詰められても、ただ見ている。「おまえ」と呼びながら、じっと見ている。
一度この視点で読み直すと、あの語りかけの意味がまるで変わります。これは「神なんていない」という絶望の物語ではない。神はいるが、手を差し伸べない——その恐ろしいほどのリアリティこそが、この小説の肝なのだと思います。
この物語の中で、最も心が揺れるシーンがあります。第20章、エリとシュウジが二人でいる場面。
エリはシュウジ以上、いや、それ以上の地獄を生きてきた女性です。シュウジは静かにその話を聞く。そして二人は、ベッドの上でくっつかないまま横たわっている。
「私に、でもそばにいて、お願い」
エリのこの言葉は、作中で最も美しく、最も哀しい一文だと思っています。くっつかなくていい。ただそばにいてほしい。それがこの二人の精一杯の繋がりで、同時にこの二人が抱えているものの重さを全て語っています。
そしてシュウジの言葉。
「お前、大切なものがなくなったって本当?でも俺はお前のこと大切だった、ずっと。お前は大切な人だった。エリのこと大切だとずっと思ってた。会えないから大切だった、会ってもっと大切になった」
「強い一人と弱い二人が、粘り一つで繋がりそうな距離を隔てて、それぞれの涙を流し続ける」——そんな場面です。
子供向けの作品と油断して読み始めると、ここで完全に足をすくわれます。これは紛れもなく、大人の小説です。
シュウジがエリと別れ、新宿の街を全力疾走するシーンがあります。孤独と絶望の中を、ただ走り続ける。
そして物語の最終ページ。ケーキ屋のシャッターに、細く小さく刻まれたメッセージ。
これがシュウジの最後のメッセージです。そしてこれこそが、この物語の全てだと私は感じました。
殺人を犯し、逃亡し、すべてを失った少年が最後に残したのは、「死んでやる」でも「消えてしまいたい」でもなかった。誰かと一緒に生きたい、という祈りだった。
この一行のために、上下巻すべてがある。そう言っても過言ではないと思っています。
新宿をシュウジが疾走するシーンを読んだとき、頭に浮かんだ人物がいます。1999年9月、池袋で通り魔事件を起こした造田博氏。重松清のルポルタージュ『重松の隣人』の中で描かれていた人物です。
造田氏が所持していた数少ない所有物の中に、中上健次の『十九歳の地図』の単行本がありました。
「俺は犬だ、隙あらばお前たちの弱い脇腹を食い破ってやろうと思っている獣だ」
この街を駆け巡る「犬」の精神に感化されながら、造田氏は自虐的に人と人との繋がりを憎み、断ち切ろうとして殺人を犯した。というのが動機です。
| 中上健次『十九歳の地図』の主人公 | 重松清『疾走』のシュウジ | |
|---|---|---|
| 疾走の理由 | 繋がりを断ち切るため | 繋がりたいから |
| 暴力・殺人の動機 | 人への憎しみ、断絶の意志 | 人への愛情、繋がりへの渇望 |
| ラストのメッセージ | 世界への宣戦布告 | 「誰か一緒に生きてください」 |
同じ「疾走」でも、その内側にあるものは全く逆です。シュウジが殺人を犯してしまうのは、人と繋がりたいという思いからであり、それこそがこの物語を他の暗い小説と一線を画す理由だと思います。
だからこそ、最終ページが読み手の心を激しく揺さぶるのです。
私自身、数多ある重松清の作品の中で、この『疾走』をベストワンには選ばないと思います。暗い。重い。性描写も暴力描写も濃厚で、気軽に人に勧められる作品でもない。
それでも、シュウジという存在は圧倒的です。全然違う環境、全然違う人生を歩んできたはずなのに、「ひとり」だという感覚だけは、読む者の心に刺さってくる。
「ひとりぼっちが二人になれば、それはもうひとりぼっちではない」——そういうことを、この小説は書いています。ただ、普通の小説のように優しく書かない。読者の心を、シュウジと同じ地獄に引きずり込んだ上で書く。
それが重松清『疾走』という小説の、恐ろしいほどの力だと思います。
- 「おまえ」という語りかけの正体——助け舟を出さずに見続ける神の視点。現代版ヨブ記としての構造が、物語に比類ない深みを与えている。
- シュウジとエリの場面——「くっつかないで、でもそばにいて」。二人の繋がりの在り方が、この物語で最も美しく、最も哀しい。
- ラスト「誰か一緒に生きてください」——上下巻すべてが、この一行のためにある。繋がりを断ち切ろうとした中上健次の主人公と正反対の、繋がりを求めて走り続けたシュウジの祈り。
- 重松清の他作品を読んで、もっと深く重松清を知りたい人
- 「ひとり」だという感覚を抱えながら生きている人
- 読後感の良い小説より、心に刺さり続ける小説を求めている人
- 中上健次や村上春樹など、文学的な深みのある作品が好きな人
読み終えた後の、あの心の穴。それはきっと、この小説があなたの中に残したシュウジの痕跡です。ヒリヒリとした痛みが、しばらく消えないかもしれない。それでいいと思います。


