- 「シャトゥーン」という言葉の意味と、この小説が生まれた背景
- ヒグマの生態と、実際に起きた食害事件との関係
- あらすじ・登場人物・作中のヒグマ「ギンコ」について
- 「ジョーズのヒグマ版」と呼ばれる理由と、その読みどころ
- クマに遭遇したとき「死んだふり」は本当に有効か
- 関連作品(羆嵐・慟哭の谷・ファントムピークス)との違い
「シャトゥーン」という言葉を聞いたことがない人がほとんどだと思います。これはアイヌ語で「穴持たず」を意味する言葉です。冬眠用の穴(横穴)を持たない、つまり冬眠に失敗したヒグマのことを指します。
ヒグマは通常、秋のうちに大量の食料を蓄えて冬眠に入ります。しかし何らかの理由で食いだめに失敗したり、冬眠穴を確保できなかった個体は、真冬の雪原を飢えたまま徘徊することになります。これがシャトゥーン(穴持たず)です。
極度の飢餓状態にあるシャトゥーンは、通常のヒグマよりも凶暴で、人間を含めあらゆるものを食べようとします。北海道で起きた食害事件の多くにシャトゥーンが関わっていると言われており、この作品のタイトルはその言葉をそのまま使っています。
「シャトゥーン ヒグマの森」増田俊也 著 / 宝島SUGOI文庫
著者の増田俊也は1965年愛知県生まれ。北海道大学に入学し、柔道部で「七帝柔道」と呼ばれる寝技中心の競技柔道に打ち込みましたが、4年生で大学を中退。その後記者として北海タイムス社、中日新聞社に勤め、2006年に本作でデビューしました。
この経歴を知ると、作品の現実感の正体が分かります。作中に登場する「電気も通っていない北海道大学の観測小屋」「木も悲鳴を上げるマイナス40度の寒さ」「北大教授の研究室の様子」。これらは著者自身が実際に体験した北海道の光景がベースになっています。後に増田本人が語っています、「北海道大学時代に自然保護運動に取り組んでいたときの知床原生林強行伐採への怒りが、この作品の原点だ」と。
なお著者は後に「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞し、本格的な作家として認められることになります。「シャトゥーン」はそんな著者の、勢いのままに書き上げたデビュー作です。
| 著者 | 増田俊也 |
| 刊行 | 2007年2月(宝島社)/文庫版:宝島SUGOI文庫 |
| 受賞 | 第5回「このミステリーがすごい!」大賞 優秀賞 |
| 舞台 | 北海道大学の天塩研究林(北海道北部) |
| ジャンル | 動物パニック小説/サバイバル |
| 影響を受けた作品 | 映画「ジョーズ」「エイリアン」、梁石日「血と骨」 |
| 漫画版 | 奥谷通教 作画 / ビジネスジャンプ掲載 / 全3巻(集英社) |
| 推薦 | 夢枕獏(「陰陽師」シリーズ著者)が大絶賛 |
「シャトゥーン」を読む前に、ヒグマという生き物のスペックを頭に入れておくと、この作品の恐怖感が段違いになります。
日本には2種類のクマが生息しています。本州に生息するツキノワグマは体長120〜130センチ、体重70〜80キロ前後で、人間と大きさが大きく変わりません。一方、北海道に生息するエゾヒグマ(グリズリーと同種)は体長200〜300センチ、体重は150〜250キロが標準で、個体によっては400キロを超えます。2005年には北海道で520キロという日本史上最大のヒグマが記録されています。
その巨体で時速50キロ(一説には80キロとも)で走ります。人間の全力疾走が時速25〜30キロであることを考えると、逃げ切ることは不可能です。一振りで人間の首の骨を折る腕力、頭蓋骨を砕く顎の力、そして犬の数倍とも言われる嗅覚。ヒグマは日本最大の陸上動物です。
さらに厄介な習性があります。一度狙った獲物を執拗に追いかけること、反撃してきた敵は顔面を攻撃すること、そして一度人間の味を覚えたヒグマは繰り返し人間を狙うようになること。日本の食害事件はヒグマ絡みが圧倒的に多いですが、その凶暴さにはこうした習性が関係しています。
本作の最大の強みの一つが、実際にあった北海道のヒグマ食害事件をほぼ網羅していることです。フィクション作品でありながら、登場人物たちが語るヒグマの知識と事件は、実際の記録に基づいています。
| 事件名 | 概要 |
|---|---|
| 三毛別(さんけべつ)事件 | 1915年、北海道苫前郡で発生。ヒグマが開拓民の集落を繰り返し襲い7人が死亡した。日本史上最悪の獣害事件とされる。吉村昭「羆嵐」、木村盛武「慟哭の谷」の題材にもなった |
| 福岡ワンゲル部事件 | 1970年、北海道日高山脈でヒグマが登山中の大学生パーティーを襲い3人が死亡した事件 |
| 沼田幌新(ぬまたほろしん)事件 | 北海道雨竜郡で起きたヒグマによる食害事件 |
| 札幌丘珠(おかだま)事件 | 市街地近くにヒグマが出没した事件。都市近郊でも起こりうる危険性を示した |
「シャトゥーン」を読んだあとに、これらの実際の事件を描いたノンフィクションを読んでいくと、ヒグマへの理解がさらに深まります。本作はその入門書として最適な位置づけの作品です。
マイナス40度も珍しくない極寒の北海道、北海道大学の天塩研究林。その森の中に立つ、電気も通っていない小さな観測小屋。年越しのパーティーのために、学者や仲間たちがそこに集まっていました。
物語の始まりは、主人公の土佐薫が車でその山小屋へ向かう途中、雪の中に倒れているヒグマの被害者を発見するところから始まります。彼らが小屋に辿り着いた頃には、車も使えず、電話も通じない、完全に孤立した状況になっていました。
そこへ現れたのが、体重350キロを超える巨大なヒグマ。冬眠に失敗し、飢えて凶暴化した「シャトゥーン(穴持たず)」です。一度人間の味を覚えたヒグマは、執拗に何度も小屋を襲ってきます。
戦うか、逃げるか、籠城するか。動物の専門家たちが知識を総動員して対処しようとしますが、体重350キロの巨体の前では何もかもが足りない。少しずつ破壊されていく小屋の中で、一行は生き残ることができるのか。
元北海道大学動物学研究員で、鳥類(オオワシ)の研究をしていた経歴を持つ。現在はテレビ局に勤める報道記者。弟の昭の年越しパーティーに娘と後輩の瀬戸を連れて向かう途中、事件に巻き込まれる。エイリアンのリプリーよろしく、恐ろしくタフで強い女性として描かれる。なお著者が後に認めているが、元TBSアナウンサーの小島慶子とキャラクター設定に共通点が多い。
猛禽類・フクロウ研究の世界的権威。観測小屋はもともと彼の研究拠点。ヒグマの習性についての知識を持ち、「生き残るためにどうすべきか」を論理的に考えながら行動する。なお観測小屋に旭山動物園の小菅正夫園長(実在の人物)をモデルとした設定が組み込まれており、「オジロワシの巣が人間何人でも寝られるほど大きくなる」という描写は著者が実際に聞いた話から採用された。
薫に好意を抱いている青年。動物の専門家ではないため、読者と同じ視点でヒグマの恐ろしさを体感する役割を担っている。
昭を尊敬する研究仲間で、「エス」の愛称で呼ばれる。今回の年越しパーティーは彼の婚約を祝う目的もあった。2番目の犠牲者。
ショットガンを持っていたことで、散弾銃の種類や威力に関する説明が自然な形で作中に盛り込まれる重要な役割を担う。
作中を襲うヒグマの名前は「ギンコ」。正式コードはTF4(天塩のT、雌FEMALEのF、4番目に捕獲された個体の4)。つまり「天塩の4番目の雌」という意味です。
ギンコの特徴は、ヒグマには珍しい灰色の毛色と、頭から背中にかけての白に近い銀毛、そして曲がった右前肢の第一指。「ギンコ」という名前はこの銀色の毛色に由来しています。仔連れのシャトゥーンで、子を守ろうとする母親としての側面も持っています。
そして物語が進むにつれて明かされる事実があります。ギンコはかつて主人公の薫と昭が保護した仔熊だった、ということです。人間に保護され、人間の近くで育ったことが、かえってギンコを「人間の味を知るヒグマ」にしてしまった。この設定が本作に単なるパニックホラーを超えた重みを与えています。
読んで最初に思ったのは「これは本物のパニックエンターテインメントだ」ということです。著者自身も「ジョーズの影響を受けている」と語っていますが、確かにその通りで、ヒグマがその気配をなかなか見せながらも姿を現さない前半の緊張感と、姿を現してからの怒涛の展開が、映画的なカタルシスを生み出しています。
この作品の最大の強みは、「登場人物が論理的に考えて行動している」という点です。動物の専門家が複数いるため、「クマに遭遇したらどうすべきか」「銃の有効射程はどれくらいか」「籠城と逃走のどちらが生存率が高いか」を、きちんと知識に基づいて判断しながら動きます。それでも350キロのヒグマの前には何もかもが足りない。その無力感が、恐怖の説得力を何倍にもしています。
ヒグマに詳しくなれる点も大きな収穫でした。「死んだふりが有効」というのが実は都市伝説であること、クマに遭遇したときの正しい対処法、食害事件の歴史。エンターテインメントとして楽しみながら、北海道のヒグマ問題についての知識が自然に身につきます。
ただし正直に言うと、主人公・薫の「強さ」はかなり現実離れしています。エイリアンのリプリー的なヒーロー性があって、「そこまで人間が持ちこたえるか?」と思う場面がいくつかあります。でも著者自身が「エンターテインメント作品だから」と割り切っているし、その勢いと熱量こそがこの作品の持ち味です。細かいリアリティよりも「怖くて面白い」という体験を優先した一冊として読むのが正解です。
「シャトゥーン」を読んでヒグマに興味が湧いた方向けに、関連作品を整理します。
| 作品名 | 著者 | 特徴 |
|---|---|---|
| 羆嵐(くまあらし) | 吉村昭 | 三毛別事件を題材にしたフィクション。ヒグマ文学の古典。「シャトゥーン」よりも抑制されたリアリズムで、読後の重さが違う |
| 慟哭の谷 | 木村盛武 | 同じく三毛別事件のノンフィクション。実際に何が起きたかを克明に記録した作品。ホラーとしての怖さは「シャトゥーン」以上 |
| ファントム・ピークス | 北林一光 | ヒグマ関連の小説の中でも高い完成度を誇る作品。ミステリー要素が「シャトゥーン」より強め |
| 羆撃ち | 久保俊治 | 実際の猟師によるノンフィクション。ヒグマを「猟師側から見る」視点が新鮮 |
「シャトゥーン」はフィクションとしてのエンターテインメント性が高いため、最初の一冊として読みやすいです。これを読んだあとに「羆嵐」や「慟哭の谷」に進んでいくのが、ヒグマ文学の王道ルートだと思います。
- 映画「ジョーズ」が好きな人:あの「見えない恐怖が迫ってくる」緊張感を、日本の北海道で体験できます
- パニックホラーが好きだが「登場人物がバカすぎる」のが苦手な人:本作の登場人物は専門家揃いで、論理的に行動します
- ヒグマや北海道の食害事件に興味がある人:実際の事件の入門書として最適です
- 「怖いけど面白い」が欲しい人:読後感は完全に「面白かった」です
- 人間がヒグマに生きたまま食べられるシーンが複数あります。グロテスクな描写が苦手な方は要注意
- 主人公の強さが現実離れしている場面があります。細かいリアリティを求める方には向かないかもしれません
「シャトゥーン ヒグマの森」は、日本が舞台の動物パニック小説として、この分野で間違いなく最初に読むべき一冊です。エンターテインメントとして純粋に面白く、同時に北海道のヒグマ問題と食害事件の歴史への入門書としても機能する、二重に充実した作品です。
読み終わった後、北海道の山には一生行きたくないと思うはずです。そして同時に、日本にこんな生き物が生きている事実の圧倒的なリアリティが頭に残ります。「動物園で見るクマ」と「野生の350キロのヒグマ」が別の存在だということを、この小説は体験として教えてくれます。
